蛇にピアス

by 金原 ひとみ 2003年作品
蛇にピアス  芥川賞受賞で一躍脚光を浴び、大学教授を父にもち小学生にで引きこもりデビュー、サンフランシスコでの生活、高校中退といった作家本人のプライベート情報と「肉体改造」というおよそ平凡な日常を送っている人間には縁の無いテーマに興味が集まりがちであるが、この作品は「芥川賞」つまり純文学として認められたものであるということを思い出してもらいたい。一般的な印象では、大衆文学=直木賞、純文学=芥川賞である。さらに純文学というもの印象は、読み手にとっての敷居が高く、わかる人にしかわからないもの、である。
 この作品を読み進めるのには忍耐が必要である。多くの読者は肉体改造の描写に嫌悪を覚え、途中で読むことを放棄するかも知れない。私にとっては、少々エログロが入った女性作家とは思えないような男性的な文体は好みであるし、勢いや若い才能だけでは書けないような計算高いプロットにも好感を持っている。<取り扱った題材が、作家本人にとっては扱いやすかった、つまり取材がしやすく本人の日常に近いものだったというだけで、舞台がサンフランシスコのカストロストリートでもラスベガスのストリップでも、香港でもバンコクでもこの小説は成り立ったと思う。
 いずれにしても、日常とはかけ離れた想像の中の世界、というな気がしていたのだが、実は自分が当事者ではないということだけで、身の回りにあふれている日常なのかも知れない、とふと思った。
 いや、身の回りにあふれているという訳では決してなく、東京で、サンフランシスコで、ラスベガスで、バンコクで、香港で垣間見てしまった世界の一端というだけかも知れないが。
 作者としては作品の舞台を普通の高校や大学に置き換えて、「肉体改造」ではなく「パンクバンド」を題材にしてもこの小説で描きたかったテーマは書き切れたと思う。おそらくその方が大衆文学としては受け入れられる、つまり商業的な成功を得やすい作品になったのだろうが、あえてそれをせず自分の土俵で勝負したという点も評価したい。
 なにかと綿矢 りさ蹴りたい背中と比較されてしまうのだが、作家同士の比較というか並べて見るという行為にはそれなりに意味があるのだが、作品を比較するのはいかがなものかと思う。
芥川賞という作品の競い合いで選ばれた2作品が比較されるのは当たり前かも知れないが、一般読者にとってこの行為はそれ程意味が無い。というか、リンゴとみかんを比較するような、犬と猫どちらが好きかを決定するような不毛な行為であると思う。
 作品的にはむしろ平野 啓一郎 日蝕あたりと比較したいところだ。
 金原 ひとみにはミステリー作家としての素養も感じるので、近い将来この作家の本格的ミステリー小説も読んでみたい気になる。

 元来アーティストというのは、一般人とは違う視点で物事を表現できる人たちのことである。普通に生活をして、不自由なく一流大学を出て青春を謳歌したような人間には、物事を斜めにみて、一般人が思いつかないような解釈が出来るとは思えない。ある程度の歪んだ人生経験を持った人間のみがずば抜けた表現だ出来る、しかしそれは商業的な成功とは程遠いだろう。普通の人よりほんの少しだけ思いが強く、努力できた人が産み出す作品(=商品)となって人々はにほんの少しの感動と、作者には巨万の富を与えるのだろうか。
 とは言え、商業価値の高い作品をつくるというのは実はとてつもない才能が必要である。それは表現者としての自分をどこまで抑えられるかということで、商業的に成功できなかったときに本人にもたらすフラストレーションを倍増させるものだ。
 金原 ひとみにはドラマにもなりうるような純愛小説も書ける才能があるのだから、なんとか自我と読者の期待の狭間を生き抜いて欲しい。カートコバーン のような結末にならないように...


Posted by Rei Genma on March 20, 2004 | TrackBack
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